冬のソナタ 創作話

「君に降る雨」

作者 : 晶



【1】



三階の教室から、こっそりと窓の下を眺めていたユジンは
小さくため息をつき唇を噛んだ。
授業開始まで、あと数分。
腕時計を見るのは、いったいこれで何度目だろう。
ユジンの立っているその窓の下には、どうにも景観の優れない中庭が広がっている。
古い校舎に囲まれているうえに、木々の手入れがなされていないそこは
天気のいい昼間でも薄暗く、あまり憩いの場所となる雰囲気ではない。
朝から蒸し暑く、曇りがちな今日はなおさらのことで
今、ユジンの目に映るあのふたりを除いては、ほかに人影はなかった。


ユジンのすぐ隣では、クラスメイトたちが、いつもの噂話に夢中になっている。
誰と誰がつきあっているとか、誰が最近振られたかとか
来る日も来る日も、昼休みの話題はいつも同じだ。

「ねえ、彼女の時計見た?」
「ああ、みたみた。彼からあずかったんだって」
「もうっ、うらやましい!!」
「最近、はやってるよね。男物の時計してるコはカレシ持ちってこと?」
「ま、そういうこと・・・ね、ユジン」

話しかけられたところで、ユジンにはまるで聞こえてはいない。

(まだ、話してる・・・)

中庭のふたりは、ユジンの予想を大きく上回り、やたら会話が長引いている。
そのことがどうにも落ち着かず、ひたすらふたりの様子から目が離せない。
今は誰に何を言われようとも、ユジンの耳には何も届くことはなかった。

「ねぇ、ユジン聞いてるの?」

仲間の一人が、ユジンの背中をつついた。

「ユジンは、どうなの?」

さすがに無視することも出来ず、ユジンは仕方なく振り返った。

「え?何が・・・」

それでも、ちらちらと、視線は中庭の様子に向けられる。

「ちょっとぉ、もしかして、まったく聞いてなかったの?」
「あ・・・ゴメン。何の話?」
「ヤダもう!・・・あのね、男の子がね、好きな女の子に自分の腕時計あずけるのよ」
「・・・時計?」
「自分の代わりに身に着けていてってことよ。ずっと一緒ってこと」
「ふぅん」
「ふぅんって、なぁに、その気のない返事」
「いいからいいから、ユジンはサンヒョクからあずかるんだから、ね、ユジン」

意味ありげな視線を向けられて、ユジンはきっぱりと言った。

「サンヒョクとは、そんなんじゃないわ」

(また、そのウワサ・・・
 サンヒョクとは、ただの幼馴染なのに・・・)

もうすっかり聞き慣れてしまった冷やかしに、心は何の反応も示さない。
自分の心は、今、まるで別のところにあるのだ。

ユジンは、まだ噂話に華を咲かせているクラスメートたちに気づかれないように
再び、窓の下の様子を偵察する。
視線の先にあるのは
木々の枝の隙間から見える、チュンサンの白いワイシャツ。
そしてそれと向かい合っている、彼女の白いブラウスだった。
チュンサンは両手の親指だけをズボンのポケットに引っ掛けたまま
彼女の話に軽く相槌を打つ。
彼女がこぼれるような可憐な笑顔を見せたとき
チュンサンもほんの少し笑ったように見えて、ユジンの心に小さなトゲが刺さる。
ユジンは“嫉妬”という感情が、今、初めてわかったような気がした。

どうやら会話が途切れたのか
チュンサンは靴の先で足元の土を軽く蹴って間を持たせている。
二人の間に、妙な緊張の糸が張り詰め
離れて見ているユジンまでもが、息が詰まりそうだった。

それにしても
いったい自分はなぜこのように、こそこそと彼を覗き見なくていけないのだろう。
自分でしていることが、だんだん惨めに思えてくる。

昼休みに入ってすぐに、教室を抜け出していったチュンサンを見て
不安でたまらなくなった。

どこへ行くの?

わかっていながら、そう呼び止めて、約束の場所へ向かうことを止めさせたかったが
そんなことを言えるはずもないことも、よくわかっていた。
自分とチュンサンとは、ただのクラスメイトに過ぎない。
彼がどこで誰に会おうと、それに干渉できるほど彼との結びつきは確かではない。
だからこうして、隠れるようにして、ことの成り行きを見守るしかないのである。

そのとき、突然、チュンサンが天を仰いだ。
ユジンは、心臓がどうにかなってしまいそうに驚き、反射的に柱の影に身を隠す。
ほんの一瞬見えたチュンサンの困惑した表情が、ユジンの心に更なる波紋を起こす。

なにが起きたの?

たまらなく気に掛かり、もう一度、窓の下を覗こうとしたとき

「ユジン!!」

突然名前を呼ばれ、ユジンの身体はびくっと跳ねた。
振り返ると、チンスクがこちらに近づいてくる。
今、この窓の下で起きているあの光景は、自分以外の誰にも見られたくない・・・
ユジンはこれ以上覗き見ることをあきらめて、しぶしぶ窓際を離れた。

ちょうど午後の授業開始への予鈴がなり、周囲の生徒たちが移動教室の準備を始めている。
チンスクは、教室内をきょろきょろと見回して、誰かを探しているようだった。

「ねえ・・・いったいどこにいっちゃったのかしら・・・」
「なあに?ヨングクなら、あそこにいるわよ」

ユジンが教室の隅に視線を走らせると、チンスクがわかりやすく頬を染めた。

「違うわよっ、もう!!」

照れ隠しに少しだけ口を尖らせユジンを睨む。

「そうじゃなくって、私が探しているのは、チュンサンよ」
「チュンサン?」

心臓は正直だ。それはあまりにも素直に反応を示す。
『チュンサン』とその名を聞いただけで、トクンっと小さく波うった。
もしかしたら、自分の頬もチンスクのようにほんのり色づいてはいないだろうか・・・。
ユジンは、そっと頬に片手を添えて、かすかに顔を隠すような仕草をした。

「チュンサンが・・・どうかしたの?」
「彼、教具係なのよ、化学の。さっき、先生が探してて・・・」
「ああ、そういえば・・・」
「ちゃんと、実験の準備しておけって・・・チュンサンに伝えなさいっていわれちゃって」
「つまり、あなたが叱られちゃうってこと?」
「まあ、そんなところ・・・」

チンスクはすっかり困り果てている。

「ユジン、知らない?チュンサンの居場所」
「どうして私が?・・・」
「どうしてって・・・それは・・・あなたたち、仲がよさそうだから」
「別に・・・そんなことないわよ」

仲がよさそうといわれ、嬉しさと恥ずかしさが入り混じる。
が・・・そうなると余計に
今、チュンサンが自分以外の女の子と密かに会っていることは言えるはずもない。

「ねえ、ほんとに知らないの?」
「知らないわよ。私だって、彼のお守りしてるわけじゃないもの」
「そんなぁ・・・こまったな・・・」

チンスクが今にも泣き出しそうな顔をした。
その様子を見ていたユジンは、やがて、何かを決心したように言った。

「わかった・・・彼、呼んでくるから。先生には、うまいこと言っておいて」
「えっ?なによ、知らないんじゃなかったの?」
「もちろん、知らないわよっ」

ユジンはそう言うが早くチンスクに背を向け、教室を飛び出した。

「ちょっと、ユジン!!」

チンスクが慌ててあとを追って廊下に出ると
すでにユジンは突き当りの階段を跳ぶように駆け下りていくところだった。

「まったく・・・知ってたんじゃない。意地っ張りなんだからっ」

ユジンの背中を見送りながら、チンスクは肩をすぼめてつぶやいた。
これで堂々と、あのふたりのところへ行ける。
ユジンのくすぶっていた想いは、早くも、中庭のふたりの元へと飛んでいく。

チュンサン、教具係でしょ。先生が探してるわよ。
そう言って、もう、ふたりが話すことを止めさせたい。

あの下級生が、男の子たちの間で、相当噂になっているのはユジンも知っていた。
可愛い、スタイルがいいと評判で、男子生徒の憧れの的なのだ。
そんな彼女が、今朝、チュンサンを待っていた。
昇降口に立つ姿は、好きな人を待つ期待と不安に満ちていて
彼女の瞳は、明らかに恋をしている・・・
ユジンはそう直感していた。

上履き用のサンダルを脱ぎ捨て、靴に履き替えることすらもどかしく
足をもつれさせるようにして、外に出た。
中庭へは、ぐるりと回って校舎の裏側に出るしかない。

こんなに焦って、バカみたい・・・

自分でも大いにあきれながら、それでも、はやる気持ちは抑えられない。
息を切らせながら校舎の角まで来たとき
反対側からやってきた人物と鉢合わせになった。

「きゃぁっ!!」

ユジンは自分にぶつかってきたやわらかい身体を、反射的に受け止める。

「痛っ・・・」

相手の頭が自分の肩に当たり、思わず顔をしかめた。

「あっ、あなた・・・」

相手の肩を支えながら、その顔を覗き込むと
顔に掛かった髪を払いのけることもなく、相手はさらに下を向く。

「ごめんなさいっ・・・」

小さな声は、確かに震えていて、その頬には涙のしずくが光っている。
目の前にいるのは、ついさっきまでチュンサンと話していたあの下級生だ。
彼女は、肩に置かれたユジンの手を振り払うようにして
昇降口の方へと向かった。

きっと、こらえきれなくなったのだろう。
両手で顔を覆ったまま走り去るその様子を見届けると
ユジンは、ただその場に立ちつくしていた。
見てはいけないものを見てしまった・・・そんな気分だった。
首の後ろを掴まれてしまった子猫のように、身体を動かすことが出来ずにいる。
「固まる」とは、こんな状況を言うのかもしれない。
思うように働かない頭の片隅で、ふとそんなふうに今の自分の状況を分析した。

やがて、前方から、ゆっくりとチュンサンがやってくるのが見えた。
麻痺していたユジンの思考は、やっとのことでそちらに向かって動き出す。
一方、チュンサンはユジンの姿を認めると、一瞬驚いたような顔をしたものの
すぐに平然とユジンの横を通り過ぎようとした。

「ちょ、ちょっと・・・」

やや上ずったユジンの声に、チュンサンが立ち止まる。
相変わらず、親指をポケットに引っ掛けたまま
ふりむき、そしてゆっくりとユジンに照準を合わせる。
少し斜に構えて、じっと見つめてくるその姿に
ユジンの胸の奥は、きゅっと掴まれたように熱くなった。
 
「あの・・・」

ユジンは迷っていた。
今、この目で見た事実をチュンサンに尋ねてもいいものか・・・

「・・・実験の準備、しなくていいの?」

まずは、あたり障りのないことを言ってみる。
しかし頭の中は、先ほどの光景でいっぱいだった。

「どうせ、もう始まってるよ」

チュンサンは腕時計を見ながら悠然と答える。
当然のことながら、ユジンも授業のことなど、どうでもよかった。
今、訊きたいことは、泣いていた彼女のことだけだ。

それにしても、どうして、チュンサンはこうも落ち着いていられるのか。
彼女を泣かせたのは彼に違いないのに
それを、自分に見られたことも、うすうすわかっているだろうに
チュンサンは、まるで何事もなかったような顔で平然と言葉を交わす。
むしろ思いもよらない光景を目撃して動揺してしまっているのは自分のほうで
それが、なんだか悔しくもあった。

話は済んだといわんばかりにその場を去ろうとするチュンサンを
ユジンは再度、呼びとめた。

「待って!」

心臓は緊張のあまり、どくどくと大きく脈打っている。

「さっき、見ちゃったの・・・その角でぶつかって」

自分の声が別のところから聞こえてくるような妙な感覚だった。

「泣いてたみたいよ・・・」

言ってしまってから、急に彼の反応を見るのが怖くなる。
それまでは何の変化もなかったチュンサンが、静かに目を逸らした。
彼は黙っている、そして、きっと黙り続けるにちがいない。
ここで引き下がってはダメ・・・ユジンはゴクリと唾を呑み込んだ。

「聞いてるの?」
「・・・」
「チュンサン?」
「聞こえてるよ」

ユジンの緊張しきった声とは対照的に
チュンサンの声は拍子抜けするほどに、普段と変わりない。

「チュンサン、あなたでしょ?彼女を泣かせたの・・・」
「・・・・・・」
「いったい、なにがあったの?」
「・・・・・・」

わずかに下を向いているチュンサンに対し、
ユジンはついつい問い詰めるような口調になってしまった。
沈黙するチュンサンの様子に、気持ちはぐらぐらと揺れる。

言わなきゃよかった・・・

やがてチュンサンが視線を上げ、じっとユジンを見つめた。
大きく息を吸って何かを言いかけたものの
結局何も言わずに、くるりときびすを返すと、ひとり昇降口に向かって歩きだした。

「チュンサン!!」

息を詰めて彼の言葉を待っていたユジンは
肩透かしを食らった上に置いてきぼりにされた。
あっけにとられて数秒後、あわててチュンサンのあとを追った。
特別に長い彼の足は、ストライドが大きく歩く速度が早い。
ユジンは彼の歩調に合わせ、自分はやや早足になりながら話しかけた。
もう、黙ってはいられなかった。

「ねえ、いいの?」
「・・・・・・・」
「かわいそうよ、あのまま放っておいたら・・・」
「・・・・・・・」
「泣いてたのよ、彼女」
「・・・・・・・」
「わからなかったの?」
「わかってる」
「だったら」

それまで、ひたすら前を見たままだったチュンサンが
急に立ち止まり、ユジンを見据えるように言った。

「その気がないのにやさしくしたら、かえってマズイだろ?」
「え?」
「つき合ってほしいって言われたから、断った・・・それだけだよ」

やっぱり・・・

一瞬、呼吸が苦しくなるような感覚に襲われた。
そしてそのまま、何も言えなくなる。
ユジンの勘は当たっていた。
やはり彼女はチュンサンに恋をしていたのだ。
自分にはわかる。
好きな人を待つときの高揚感や、遠くから見つめるときの切なさや
話しかけられたときの、心の震えや・・・
自分も同じなのだ。

今、確かに、チュンサンに恋をしている。

だから、彼女のときめきもすぐに感じることができたし
あの涙も、心が痛かった。
震えるように泣いている姿に同情したことは嘘ではないが
一方で、彼女の申し出を断ったというチュンサンの言葉に
ほっと胸を撫で下ろす自分がいる。
どうやら恋に関しては、自分も簡単にエゴの塊になれるものらしい。
しかし誰かを好きになるということは、結局こういうことなのだろう。
ほかの誰にも渡したくない。
自分だけを見つめていてほしい。
ユジンは、初めての感情に戸惑いながらも
着実に募っていく想いを無理に止めようとは思わなかった。




教室へ戻ると、チュンサンがいきなり帰り支度を始めた。
彼は授業に出席する気がまるでないようだ。

「チュンサン、授業は?」
「出ない」
「出ないって・・・帰っちゃうの?」
「雨、降りそうだろ?傘持ってきてないんだ」
「でも・・・」
「ユジンは、ちゃんと出席しろよ」

迷っているユジンを待たずに、チュンサンは自分だけ教室の出口へと向かう。

「待って、チュンサン!」

ユジンはあわててリュックを背負い、ランチケースの入った手提げを持つと
チュンサンの後を追いかけた。

なぜこんなにも彼に引きずられてしまうのか、自分でも不思議に思う。
それでも、チュンサンに向かっていく気持ちは止められなくて
今はただ彼のそばにいたい、彼を少しでも知りたい
その気持ちが何にも増して強かった。
校門を出て、二人並んでバス停に向かう。
チュンサンの歩調がゆっくりなのは
多分こちらにあわせてくれているからで
そんな些細なことでも、ユジンにとってはたまらなく嬉しい。
あからさまな表現は、少し苦手なようだが
チュンサンは、時々こうしてさりげないやさしさを見せる。
そして、そんなチュンサンの思いやりに出会うたびに
ユジンの気持ちは大きく彼へと傾くのだった。

並んで歩くことは初めてではなかったが、今までとはまるで違う気分だった。
もしかしたら、彼の心の中に誰かが存在してもおかしくはないという危機感。
ユジンは、なぜ今までそんな重要なことに無頓着でいられたか、自分でも呆れていた。

彼には、誰か好きな人がいるのだろうか。
いったいどんなタイプの女の子が、好みなのだろう。
そして、自分は彼にどう思われているのだろう。

昨日までは、ただこうして隣を歩くだけでよかったものが
今日は、彼にとっての特別な存在になりたいと願う自分がいた。
 
空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそうだ。
蒸し暑さに、長い髪が首筋に張り付く。
ユジンはその不快感に、髪を両手でまとめると
ほんの少しだけ首筋から浮かせ、うなじにわずかな風を入れた。

ふと視線を感じて横を向くと、傍らのチュンサンと目が合う。
彼が、あわてて視線を逸らし、プイッと前を向いた。
その様子に、まるで自分が何か悪いことをしたような気まずさを感じる。
ユジンはあらわになっていたうなじを隠すように、そっと髪を下ろした。

いったい、いつからこちらを見ていたんだろう・・・。
何か言いたいことでもあるのかしら・・・。

見られていたことが恥ずかしく、ユジンは言葉に詰まる。
黙り込んだままのチュンサンを横目に、何か話さなければと、あれこれ話題を考える。
そして
自分でも信じられないくらい、その言葉はすんなりと口をついて出た。

「さっきのコ、どうしたかしら・・・」

気になっていた。
あれからずっと、頭の片隅にそのことがひっかかっていた。
ただ、話題にしてはいけないことのような気がしていたのも、確かだ。
それでも、なぜそんなことを言い出すことができたのかは、自分でもわからない。

「もういいよ、その話は・・・」

感情のない声が返ってきて、ユジンは気後れする。

やっぱり、訊いちゃいけなかったかも・・・

チュンサンが怒ったのかと、ちらりとその横顔を見た。
しかし、彼は相変わらずのクールな横顔のままだ。

「・・・怒ってない?」
「なんで?」
「だって・・・ぜんぜん笑わないから・・・」
「笑うような話じゃないだろ?」
「そりゃそうだけど・・・」

どうやら、怒っては、いないらしい・・・
ユジンは、ほっと胸を撫で下ろすとともに
ふと、この手の話題に対するチュンサンの反応を確かめたい、そう思った。
思えば彼は、普段から軽々しい噂話などには決して耳を貸さない。
彼自身が、常に女生徒の注目を集めてしまっているということにすら
まるで無頓着でいる。
しかし普通の高校生であるなら、異性に対して関心がないはずはない。
ユジンは早速、持ち前の好奇心に満ちた表情で話し始めた。

「あのコ、有名なのよ」

案の定、チュンサンは何も答えない。

「知ってたでしょ?」

「うちのクラスでも、よくウワサになってるじゃない?」

「モテるのよ。男の子の間ではすごく人気があるの。聞いたことあるわよね?」

まるで反応を示さないチュンサンに、ひとり、矢継ぎ早に問いかける。
相手にされないことがだんだん悔しくなってきて、ユジンは思わずムキになる。

「顔もかわいいし、スタイルもよくって・・・ねえ・・・そう思わないの?」

ユジンは、思わずチュンサンの前に回りこんで尋ねた。
チュンサンは、前を見たままで

「別に」

と素っ気無く答える。
まるで興味がなさそうなようすが、返って不自然に思えて納得がいかない。

「それだけ?ほんとに、なんとも思わなかったの?」

と、ユジンはついついくどくなる。
チュンサンは、仕方がないといった表情をして
まるであの下級生の姿を回想するように視線をめぐらせてから

「そうだな・・・胸は大きいと思った」

そう付け加えた。
ユジンはその言葉に思わず目を見張る。

「ちょっと・・・呆れた!そんなとこ見てたのっ?」
「そんなとこって・・・見るさ、ふつうは」
「ヤダ、見ないわよっ」
「見るよ、男は」

チュンサンが少し面倒臭そうつぶやいて、急に歩調を速めた。
ユジンはそれを追いかけながら、話を続ける。

「わかった!!チュンサン・・・ほんとは好きなんじゃないの?」
「なにを?」
「だから・・・ほら・・・あのコみたいに胸が大きいコ」

その言葉にチュンサンは一瞬黙ったあと
ちらりととユジンの胸に視線を走らせ、声を出さずに笑った。
その様子を見て、ユジンの全身が、かっと火照る。

「な、なに今の・・・」

きっと今、自分はこれ以上ないほど真っ赤になっているだろう。
動揺するユジンを見つめるチュンサンの眼差しには
悔しいほどの余裕と、かすかな挑発が感じられる。

「言っときますけど・・・着痩せするんです、私は!!」

自信ありげな言葉とは裏腹に、身体の向きを変え
自分の胸を隠すかのような仕草をするユジンに向かって

「べつに、何も言ってないだろ」

そう言いながら、彼は明らかに笑いをこらえている。

「だって・・・」

ユジンはうつむいて自分の胸元を見ていたが、急に背筋を伸ばし胸を張ると
つんっとすまして、チュンサンの少し前を歩き出した。
そんな勝気な背中を、チュンサンはなおも可笑しそうに眺める。

やがて、路地の角を曲がり、停留所に止まっているバスを見つけたふたりは
ぎりぎり、滑り込むようにして、それに乗り込んだ。
バスの中は、人いきれでむせかえるようだった。
雨がぽつぽつと降り始め、ワイパーが動き出す。
いつもより早い時間帯にもかかわらず、人の多さにうんざりする。
バスが停留所で停まるたびに、次々と乗り込んでくる人並みに押され
ふたりは、中央辺りまで押し込められた。

チュンサンと並んでつり革につかまっていたユジンの後ろに
30代くらいのサラリーマン風の男が立った。
何気なくその男に目をやったチュンサンは、彼の動きが不自然であることに気づく。
必要以上にユジンの背中にぴたりと身体を寄せ、彼女の髪に鼻先を近づけている。
次いで片手をゆっくりと下ろしていく様は
これから彼がなにをしようとしているかが明白だった。
肝心のユジンは、少し窮屈そうに身体を縮めているものの
まだ何もきづいてはいないようだ。
不意に身体の奥底から、言いようのない感情がせりあがってきた。

「もっとこっちにつめて」

まるで叱りつけるように低く言い放つと
チュンサンは、いきなりユジンの腕を掴み、ぐいっと自分の方へと引き寄せた。
ユジンが驚いたようにチュンサンを見る。
腕を掴む力が強すぎたのだろう、一瞬痛そうに顔を歪め

「どうしたの?」

と、怪訝な顔で問いかけてくる。
しかし、理由など説明できるはずもない。
ただ、自分以外の男の手が、ユジンに触れようとしたことがどうしても許せなかった。
不意に湧き上がった想いは、怒りにも似ていたが
それとはまた違っているようにも思えた。
その感情は、黙り込むことで、身体の奥深くで余計に増幅していくようだ。

チュンサンはさらにユジンと入れ替わるように自分の身体を盾にして
その男からユジンを遠ざけた。
ユジンの姿が、男の視線にさらされることすら
絶対に耐えられないような気がしたからだ。
やがて背後で、男のかすかな舌打ちが聞こえ
ユジンが穢される心配はなくなったものの
チュンサンの張り詰めた想いは
やり場のない悶々とした、得体の知れないものへと変わりつつあった。


何も気づいていないユジンにすれば
厳しい表情のまま押し黙っているチュンサンが、わからない。
急に引き寄せられたことも、なぜか不自然に思える。

ユジンは、そっとその表情を伺った。
チュンサンの顎先が目の前にあり、唇は固く結ばれている。
いったいどこを見ているのか、ほんの少し怒りを含んだような視線が気になった。

それにしても、あまりにも近い。
ふたりは、いつの間にか向かい合うような格好で立っており
ほんの数センチの距離しか離れていない。
そう意識しだすと、ユジンは、頬が火照るのを抑えることができずにいた。

たとえば並んで歩くことがあっても、決して身体が触れ合ったりはしない。
向かい合い、しかもお互いの息がかかるほど近づくことは、これが初めてだった。
チュンサンに引き寄せられたせいで、ユジンはつり革に手が届かない。
揺れる足元が不安で、思わず、チュンサンに助けを求めるような視線を送ると
彼が、自分の腕につかまるよう、同じく視線で合図をしてきた。
ユジンは一瞬考えてから、まるで幼い子が母親の服を掴むように
彼の白いシャツの袖をぎゅっと掴んだ。

バスがカーブに差し掛かり大きく揺れる。
二人の身体は突然のことに逆らえず、お互いが胸を合わせる格好になった。
触れ合った瞬間、ユジンがあわてて、身を引こうと試みる。
それでも、揺れるバスのせいで、
ついに、ユジンの身体は、向かい合ったチュンサンに強く押し付けられた。
もはや、自分の力では身を引くことは不可能で
ユジンは観念したように、その身体をチュンサンに預けるしかなかった。

やがて道は直線に入り、バスの揺れはおさまった。
しかし、ユジンはチュンサンと目を合わせられなかった。
相変わらず、チュンサンのシャツの袖を掴んではいたが顔を上げることが出来ずにいる。
一方チュンサンの視線は、ひたすら、バスの窓を伝わる雨のしずくに注がれたままだった。

ふたりの間に、なんとも言いがたい空気が流れている。
お互いにその理由はわかっていたが
それに対して何か言葉を発することは、到底出来そうにない。
なんとなく気まずいような、たまらなく照れくさいような、そんな不思議な空気だった。
確かに、着やせしているのかもしれない・・・

チュンサンは、自分の身体にしっかりと残った感触をたどりながら、そう思った。
視線は窓に向けられていたが、彼の脳は、雨が降っていることを認識できずにいる。
もはや思考は、たった今おきたことを反芻するのみに集中していた。

自分の胸のすぐ下のあたり・・・
ほんの数秒間押し付けられたそれは、信じられないほどにやわらかかった。
確かなふたつの丸みを感じさせ、チュンサンが今まで一度も味わったことのない感触を持ち、
そして、彼は一瞬にしてそれにとらわれてしまった。
加えて、鼻先に触れるユジンの髪の香りが、容赦なく鼻腔をくすぐる。

これじゃぁ、さっきの男と変わりがないじゃないか・・・

そう思いながらも、彼はこの状況に酔いそうだった。
薄い夏服を通して、胸の鼓動が外に漏れてしまうのではないかと心配になる。
いつまでもこの感覚にとらわれていたら、そのうちに、身体はまずい反応を示すだろう。
チュンサンは、自分の喉がゴクリと音を立てたことを気づかれたくなくて
あわてて小さな咳払いをした。

やがてバスのアナウンスが、ユジンの降りる停留所の名を告げた。

「・・・降りなくちゃ」

小さくつぶやくユジンの声は、どこかさびしげで甘えているように聞こえた。
自分のシャツの袖から細い指が静かに離れ、彼女がゆっくりと背を向けようとしたとき
チュンサンは、思いがけない言葉を口にしていた。

「ユジン、家に寄っていかないか?」











君に降る雨 【2】






停留所で、ふたり一緒にバスを降りる。
傘のないふたりは、ひとまず目の前にある雑貨屋の軒下に入り込んだ。

黒い雨雲に覆われた空を、恨めしそうに見つめるチュンサンとは対照的に
ユジンは、そわそわと落ち着かないほどに、その心は弾んでいた。
いつかは来てみたいと思っていた街並みを目に焼き付けたくて
初めて降りたその場所を、ゆっくりと眺める。

ここから、毎朝バスに乗ってくるのね・・・

そう考えただけで、ユジンはその場所が好きになれる。
今はどんな些細なことでも
チュンサンに関わることすべての事柄が、ユジンに、ときめきをもたらしてくれる。
バスの中で誘われたときはあまりにも唐突で、はっきりとした返事が出来なかった。
驚いているうちに自分が降りるはずの停留所を過ぎてしまい
そのまま、チュンサンについてくることになったわけだが
今は、素直にこの状況が嬉しくてたまらなかった。

雑貨店に客がやってきて
入り口をふさぐように立っていたチュンサンを疎ましげに見る。
チュンサンは客に軽く頭を下げると
通り道をあけようと、ユジンの方にさっと身体を寄せてきた。
腕が軽く触れ合う。
ユジンの胸の奥がじわりと熱くなる。
それは心臓から送り出される血液の急な流れなのだろうか。
熱いうねりのようなその感覚は、波のように引いては押し寄せユジンを揺さぶる。

ただ偶然触れただけ・・・

たっただそれだけで、どうしてこうも息が詰まるように胸がドキドキとするのだろう。
ふとバスの中の出来事を思い出す。
あんなことがあったから、きっとこんな風に反応してしまうのかもしれない。
自分の胸がチュンサンに押し付けられた瞬間を思い出す。
触れ合った胸の思いがけない逞しさが蘇り、頬が火照る。
ユジンは、周りの景色を見ることや、激しくなってきた雨を気にすることも
忘れてしまいそうだった。
  
「走るしかないな」

突然、チュンサンが、空を見上げながらつぶやいた。

「濡れちゃうけど・・・」

そう言いながら、ユジンを気遣うような視線を送ってくる。

「平気よ」

ユジンが屈託なく笑うと、チュンサンはなにやら自分のリュックをがさがさと探り
やがてグレーの体操着を引っ張り出した。

「これ、かぶって」
「えっ、いいの?・・・チュンサンは?」
「オレはいいから」

照れているのか、やや憮然とした表情のチュンサンからそれを受け取りながら
嬉しさについ頬が緩む。
その顔を見られるのが恥ずかしくて、ユジンはそっと下を向いた。
チュンサンは、そんなユジンの頭をポンッと叩くと

「いくぞっ」

と声を掛け、雨の中へと飛び出していった。

「あ、待って!」

雨をよけるように、少しだけ背中を丸めて走るチュンサンを、ユジンはあわてて追った。
途中、雨に濡れた手元から、ランチケースの手提げが滑り落ちる。

「いけないっ」

ユジンが、水溜りに落ちたそれを拾い、立ち上がると
目の前に先に行ったはずのチュンサンが立っていた。
手がすっと伸びて、ユジンの手から手提げを受け取る。
そうして空いた手を、彼がしっかりと掴んだ。

「あ・・・・」

突然のことに驚いたユジンは、掴まれた手をかすかに引っ込めた。
しかしチュンサンは、躊躇うこともなくさらにその手を強く握り直す。
それは、わずかに痛みを感じるほど、力がこもっていた。

「急ごう!!」

チュンサンはユジンを引っ張るように走り出した。
ユジンは、ただひたすら彼の背中だけを見つめながら走るだけだ。
走りながら、ユジンは今日のめまぐるしい出来事を思い出していた。
あの下級生がチュンサンと話していた姿や、泣いていた姿が浮かんだ。
彼女の一件がなかったら、自分はチュンサンと、こうも急な接近はしなかっただろう。
なにしろバスの中では、息が掛かるほど近づき、胸が触れ合い
突然、家に来ないかと誘われて・・・
そして今は、こうしてしっかりと手を繋ぎあっている。
ユジンは、少しだけ彼女に申し訳ないような気がした。
そして、正直なところ、かなりの戸惑いも感じていた。
予想もしていなかったことが次々と起こり、こんなに急に近づいてしまって
これは自分たちにとって、いいことなのかどうかがわからなくなる。
なぜなら、まだ自分の気持ちをチュンサンに伝えていないからだ。
そして、もっと重要なことは、まだチュンサンの気持ちを聞いていないことだった。

それでも、そんなことはすぐにどうでもよくなっていった。
そんな迷いは、結局はあの感覚にのみこまれてしまう。
走りながらチュンサンが手を握り直すたびに
ユジンの身体の奥深い場所に、あの、熱いうねりがやってくるのだ。
肌の表面がざわついて、ほんの一瞬、胸が苦しくなる。
そして、その感覚をいつまでも味わっていたいと願う自分がいる。
身体に現れる反応は、理屈ではない、心の動きを正直に映し出す。
なぜか自分の方をまるで見ようとしないチュンサンに

いつまでも、離さないで・・・

そう気持ちを伝えたら、いったいどんな顔をするだろう。
ユジンは、言葉の代わりに、彼の大きな手を強く握り返した。
「もう少しだ!!」

曲がり角の塀に囲まれた家が見えてきて、チュンサンが叫んだ。
雨はますます激しさを増し、ふたりを容赦なく濡らす。
ふたりは手を繋いだまま、小さな木戸から庭に駆け込んだ。

そのまま玄関の軒下に滑り込む。
するりと手が解かれて、ユジンの手にはチュンサンの感触だけが残る。
不思議なことに、それは繋いでいたときよりも生々しい。
長い指、堅く盛り上がった手の平。
そしてそのぬくもり、力強さ・・・。
ユジンはその感触を逃がさないように、手の平をそっと握り締めた。

チュンサンはユジンに背を向けてズボンのポケットを探っている。
やがて、彼が玄関の鍵を探しているらしいことに気づき、ユジンは内心驚いた。

・・・ふたりきりなの?

まるで思いも寄らなかったことだった。
ここまでが何もかも唐突で、そんなところに考えが及ばなかったのだ。
しかしチュンサンは、そんなことなど、気にもかけてはいないのかもしれない。
だったら、ふたりきりであることを自分から確認することはしたくなかった。
ふたりきりだからといって、必ずなにかが起こるわけでもない。
そもそも、そんなことを意識すること自体が、恥ずかしいことのような気がするし
何よりも今、自分は帰りたいはずもない。
結局ユジンは、わずかに緊張しながらも黙ってチュンサンの様子を見守るだけだった。

どうやらチュンサンが、やっと鍵をみつけたようだ。
鍵を開ける彼の背中には、ぐっしょりと濡れたシャツがはりついている。
肌色が透けて見え、たくましい背筋の動きすらわかるほどだ。
そのときユジンは、はっとして自分のブラウスに目をやった。
当然のことながら、それはしっとりと濡れたまま胸の隆起に沿って張り付き
下着の影がくっきりと浮かび上がっている。
驚いて、手に持っていた体操着で胸元を隠したのだが
それはもうすでに、チュンサンがユジンを振り返った後だった。

「待たせてごめん」

そう言ってユジンを見た彼の笑顔が、一瞬にして変わる。
ユジンの胸元に注がれた視線は、数秒の後、まるで迷走するかのように宙を泳いだ。
そのまま言葉もなく視線を逸らすと、わずかに横を向きユジンのほうを見ないようにしている。
そんな正直すぎる反応にユジンも恥ずかしさが募り、彼をまともに見ることができない。
どこか気まずい沈黙のあと

「・・・タオル、持ってくるから・・・」

横を向いたままそう言ったチュンサンに対し
ユジンも目を合わせられないまま、ただコクリとうなずいた。

チュンサンがあわただしく靴を脱ぎ、廊下の奥に消えていった。
その後姿を見ていたユジンは、不意に可笑しさが込み上げてきて
思わずクスッと小さな笑いを洩らした。
いつも冷静な彼の声が、今は違っていた。
明らかに動揺していることがわかって、その様子がなんだかかわいいと思った。

・・・普通の男の子なのね

そんな気がして、どこかほっとした。
そして・・・そんなチュンサンが、とても好きだと感じた。
  
チュンサンを待ちながら、ユジンはそれとなく玄関から見える範囲を観察した。
さほど大きな家ではないが、こざっぱりと掃除が行き届いているように見える。
玄関にはみずみずしい花が活けられていて、ユジンをやさしく出迎えてくれた。
奥へと続く廊下の壁にはなにやら絵が飾られ、どことなく上品な雰囲気がある。
日ごろ、優等生に見られることを極端に嫌うチュンサンだが
どんなに彼が不良の役を上手く演じて見せても
その風貌には、育ちの良さのようなものを隠しきれないところがある。
同じように父親がいない立場であることを、彼自身から聞いてはいたものの
常に倹約を強いられる自分の家とは違い
彼の生活が、それなりに恵まれているらしいことを感じずにはいられなかった。

やがてチュンサンがタオルを手に戻ってきた。
玄関にたたずむユジンを、まっ白いバスタオルがふわりと包む。
目のやり場に困りながらも、チュンサンがぎこちなく身体を覆ってくれた。

「ありがとう・・・」

タオルの清潔な香りと柔らかな感触に、ユジンは思わず頬ずりをする。
ふと視線を感じて顔を上げると、チュンサンと目が合った。
何か言いたそうに、彼の唇が少しだけ歪む。
かすかに眉を寄せ、じっとユジンを見つめている。
が・・・それもほんのわずかで、彼はすぐに視線を逸らした。

「上がって・・・」

小さく言って、チュンサンがユジンを促す。

「うん・・・おじゃまします・・・」

ユジンは濡れた靴を脱ぐと、後ろ向きになってチュンサンの靴と一緒に玄関に並べた。
振り向かなくてもわかる。背中に、はっきりと彼の視線を感じる。
多分チュンサンは、今さっき見せたあの顔で、こちらを見つめているのだろう。
ユジンはそれを感じながら、気づかないフリをした。
もっと見つめて欲しかったからだ。
彼に見つめられていることが、少しくすぐったくて、そしてとても嬉しかった。
「ちょっと、ここで待ってて」

ユジンをドアの前に残し、チュンサンは先に自室に入った。
すばやく部屋を見渡すと
まずはベッドの上のパジャマを丸め、カバーの中に押し込んだ。
読み散らかしてあった雑誌は、ユジンに見られないようにベッドの下に放り込み
机の上のものは、引き出しに無理やり詰め込んで
最後にソファや床にごみが落ちていないかどうかを確かめる。
そうして、よどんだ空気を入れ替えようと窓を開けると
外の空気とともに、降り続く雨の音が入り込んできた。
その雨音を聴いているうちに
ユジンが、この部屋のドアの外で待っていることがとても不思議な気がしてきた。
考えてみれば、突然家に連れてくるなどと、かなり自分らしくない行動だった。
それでも、バスの中であのまま別れてしまうことがたまらなく嫌だった。
ただ無性に帰したくなくて、気が付くと誘う言葉が口をついて出ていた。
どうしてなのか、理由は明白だ。
やはり自分はユジンが好きなのだ。
昼休み、あの下級生に伝えた自らの言葉が蘇る。
あのとき言ったことは嘘じゃない。
それはユジンと初めて出会った瞬間から、ずっと心の奥にしまっておいた大切な想いだった。

・・・そうだ・・・今日、ユジンに伝えよう・・・
・・・ずっと好きだった・・・と、正直に打ち明けよう・・・

降りしきる雨をみつめながら、チュンサンはそう決心していた。
   
「もう、いいよ」

チュンサンはドアの隙間から顔を出して、廊下で待つユジンを招き入れた。
ユジンが、神妙な顔つきでおずおずと部屋に足を踏み入れる。
入ったとたんに、わぁっと小さく声をあげて、ゆっくりと部屋を見まわしている。

「きれいにしているのね」

瞳を輝かせ、ものめずらしげに部屋を見ているユジンは
とても無邪気で無防備で、それでいて、驚くほどになまめかしい。
濡れてつやつやと輝いている長い髪も、その髪がすこしだけ張り付いている細い首筋も
そして制服のスカートから覗く白くまっすぐに伸びた素足も・・・
目の前のユジンは、いつものユジンとはすべてが違って見えた。
特に、バスタオルを掻きあわせている胸元には、気づかれたらまずいと思いながらも
どうしても視線が行ってしまう。
チュンサンは、よこしまな視線をどうにか誤魔化しながら
チェストを開けて、中から自分のTシャツを一枚取り出した。

「ユジン・・・これ」

まだ部屋の中をきょろきょろと見回しているユジンに差し出す。
そうしながらも、頭の中ではバスタオルの下に隠れている濡れたブラウスを思い描く。
ユジンの身体にピタリと張り付いていたブラウスは
その下に隠されたものを、チュンサンに容赦なく見せ付けた。
ほんの一瞬ではあったが、下着の色が淡いピンクであることも
ふちの部分にはレースのようなものがついていることもわかった。
きっとしばらくは、その映像が頭から離れることはないだろう。

「借りてもいいの?」

ユジンのどこかはしゃいだ声に、チュンサンはふと現実に引き戻された。

「あ・・・うん、すこし大きいかもしれないけど・・・」
「大丈夫よ、ありがとう」

にっこり笑ってTシャツを受け取るユジンの笑顔がまぶしい。

こっちが考えてることなんて、想像もできないんだろうな・・・

チュンサンが、やや後ろめたい気分でユジンを見ると
瞳で問いかけるように、なあに?といった表情を向ける。
澄んだまなざしを向けられ、自分が今どんな目をしてユジンを見ているのか心配になる。
何かひどい顔つきで彼女を見てはいないだろうか。
考えていることが、表情に出てしまっているかもしれない。
そう思うと、妄想で膨らみかけた頭の中身を見透かされそうな気がして、思わず視線を逸らした。

「レコードたくさんあるのね」

ユジンはステレオのそばに立ち、そこにあるレコードの数に驚いている。

「そうだチュンサン・・・今度の創立記念日のイベントに使う曲、ここから選んでもいい?」

ユジンは名案だといわんばかりに、得意げな表情でチュンサンを振り返る。
その拍子にバスタオルのあわせの部分が緩み、図らずも視線が吸い寄せられてしまった。
タオルの隙間からは、濡れたブラウスの胸元がわずかに覗く。
白い肌が見え隠れする。
もう少し緩めれば、あの下着の線が見えるはず・・・
そう考えただけで太腿のあたりから突き上げるような鋭い痺れを感じ、その反応に慌てる。
今はひとまず、この部屋を出たほうがよさそうだ・・・
チュンサンは、ユジンの問いかけには答えずに

「オレも、着替えてくるから・・・」

そう言って、無理やりユジンに背を向けた。
その素っ気無さは、事情を知らないユジンからすれば
チュンサンが急に不機嫌になったように見えたのかもしれない。

「チュンサン・・・?」

すこしだけ不安げな声で呼びかけてくる。
しかしその声がまるで聞こえないかのように、チュンサンは黙って部屋をあとにした。
後ろ手にドアを閉めると、そのままドアにもたれて天井を仰いだ。
急激に募る想いに戸惑い、そして、もてあます。
一緒にいたい・・・
その一心でここに連れてきてしまったが、もはや気持ちはそれだけに収まらなくなっている。

濡れた髪に触れてみたい・・・
この腕に抱きしめたい・・・
そして・・・ユジンの唇の感触を知りたい・・・

妄想は、ユジンのブラウスのボタンをひとつひとつ外していく自分の姿へと、発展していく。
今なら、ブラウスを脱いだユジンの姿も
その下着のホックに掛かる自分の指さえも、はっきりと想像できた。

たまらなく息苦しかった。
ほんのわずかなところで、自分は理性を保っていると感じた。
いまだ、ユジンには、好きだという気持ちすら打ち明けてはいないのに
欲望ばかりが先走ってしまう。
いったいこの状況をどう処理しろというのか・・・

チュンサンは、やりきれなさに大きく息を吐いた。











君に降る雨 【LAST】






「ユジン、この中で使う曲あるかな?」

チュンサンは自分の持っているレコードを床に広げた。

「すごい・・・こんなにあるの?」
            
放送部所有のものよりあきらかに多いレコードの数にユジンが目を丸くする。
一枚一枚手に取り、ジャケットを熱心に眺める。
夢中になっているその様子が微笑ましくて
チュンサンの手は止まり、目はユジンばかりを追ってしまう。
それに気づいたユジンが、はにかむようにチュンサンを見つめ返す。
そうしてふたりは、何度も視線を絡ませた。

「あ、チュンサン、そのレコードは?」

ユジンはチュンサンの膝の近くにある一枚のレコードに手を伸ばした。
片手を床につき大きく身を乗り出す。
そのとき突然、Tシャツの奥のユジンの胸が、視界に飛び込んできた。
サイズが合わないチュンサンのシャツでは、ユジンの襟もとが大きく開いてしまう。
向かい側にいるチュンサンからは、ちょうど胸の奥までがよく見える角度だった。
さっき透けて見えたピンクの下着は、確かにふちの部分がレースのようにカットされていた。
日ごろ制服から出ている腕や首などよりも、さらに透き通るように白い肌がまぶしい。
細い首筋とくっきりと浮かび上がる鎖骨からは華奢なイメージが強かったが
服の下に隠されていたその胸は思いがけないほどに存在感がある。
ふっくらとしたあの胸を、直接この手の平に包んだのなら
いったいどれほどやわらかいものなのだろう・・・
そう思っただけで、背筋から頭の芯に向かって、痺れるような感覚が走り
それは瞬く間に全身に広がっていく。
何も気づかないユジンが
その姿勢のままでレコードのジャケットをじっくりと眺めているのをいいことに
視線はそこに張り付いたまま動こうとはしない。
チュンサンの咽喉元がゆっくりと動く。
耳に届く音が、やけに大きく感じた。


「・・・サン?」
「・・・・・・」
「チュンサン!!」
「あ・・・」
「もうっ、どうしたの?なんだかコワイ顔しちゃって」
「えっ・・・」
「ねえ、この曲なんだけど、どう思う?」

チュンサンはまるで何もなかったように取り繕い、ユジンが差し出すレコードを受け取った。

「私、それ好きなの。すごくいい曲よ。聴いてみない?」

ユジンが、うつむくチュンサンの顔を覗き込む。
  
「・・・チュンサン?」
「・・・・・・・」
「ねえ、なんだかヘンよ」
「・・・・・・・」
「何かあった?」
「・・・いや・・・何もないよ」

言えるはずがない。
ユジンの胸に目を奪われて何も考えられなかったなんて、決して言えるはずがなかった。
カランッと氷が小さな音を立てた。
ローテーブルに置かれたグラスの中のアイスティーが静かに揺れる。
手持ち無沙汰に、ストローでそっとかき回すと
スライスされたレモンが氷と一緒にクルりと回った。
氷が解けて薄くなってしまったアイスティーは、すでに味などなく
少しだけ口に含んでみたものの、レモンの香りだけが広がっていく。
ユジンはチュンサンに気づかれないように、深いため息をついた。

ユジンの憂鬱の原因はチュンサンの態度にあった。
彼がなぜか、すっかり無口になってしまったのだ。
ついさっきまで、ユジンの提案に従いふたりでレコードを選んでいたのに。
向かい合い、意見を交換し合いながら、床に広げたたくさんのレコードの中から
数枚を拾い上げていたときだった。
気が付いたら、彼が黙りこんでしまっていた。
ユジンには、原因はもとより、きっかけすらも思い当たらない。

「何かあった・・・?」

不思議に思い、チュンサンに問いかけてはみたものの
彼はあいまいに首を振り、視線をはずしてしまう。
あまりに急な変わりように、ユジンはどうしたらいいのかわからなくなる。
ユジンの選んだレコードに針を落とすチュンサンの横顔を、そっと盗み見る。
彼はどこか怒っているようにも、思い詰めているようにも見えた。

・・・原因は、私なの?
・・・私が、何かいけないことをした?

いくら心の中で繰り返し尋ねてみても、それはどうしても言葉になっては出てこない。
気になることがあれば、すぐにでも解決しなければ気が済まない性質なのに
いつもと違う臆病な自分がもどかしい。
チュンサンの気持ちがまるで読めないユジンは、ベッドを背にすわっているチュンサンを見た。
レコードのジャケットを眺めている風でも、チュンサンの瞳は別のものを見ているようだ。

・・・ついさっきまで、あんなに話していたのに・・・

急に冷たく突き放されて、ユジンは悲しくなる。
今日のチュンサンは、いつもと違う。
ユジンの知らない、別の顔をたくさん見せる。
そして同じように、いつもと違う自分は、そんな彼にすっかり振り回されてしまう。
それでも、少しでも近くにいたい。
たとえ会話がはずまなくても、そばに寄り添っていたい。
ユジンはチュンサンの隣にそっと腰を下ろすと、彼をまねてベッドを背に寄りかかった。
スピーカーから流れてくるバラードに混じって
未だ、しとしとと降り続く雨の音が静かな部屋に広がっていく。
本来なら心を癒してくれるはずのお気に入りの曲も、今はユジンの胸に染み入ることはなく
ただ頭の中を通り過ぎていくばかりだった。

いつの間にか、曲が終わってしまった。
静か過ぎる部屋で沈黙が息苦しい。
ふと時間が気になった。
夕方に、妹のヒジンを迎えに行かなくてはならないことを思い出したからだ。
腕時計を見ると、針はまだ午後の二時を指している。
そのときユジンは、その時計が止まっていることに初めて気がついた。
ユジンの時計は、母から譲り受けたアンティークで、いつ壊れてもおかしくない年代ものである。
慌てて小さなネジをまいてから耳に当ててみたが
いつもの繊細でやさしい音は聞こえてこない。
腕を振ってみたりネジを再びいじってみても、まるで反応はなかった。

「壊れちゃったのかしら・・・」

ユジンの心細げな様子に、チュンサンが事情を察したようだ。

「どれ・・・」
 
そう言っていきなりユジンの左手首を掴むと、そのまま自分の耳に当てた。
ユジンは、驚き、声も出せずにその手をチュンサンに預けたままだ。
時計より、掴まれた手首に神経は集中する。
ユジンは息を詰めてチュンサンの横顔を見つめた。

「ちょっといいかな」

チュンサンはユジンの腕から時計を外すと、先ほどのユジンと同じようにネジを回している。
真剣なその横顔を見つめながら
初めて出会った頃、彼が放送機器の配線を難なく直したことを思い出す。

「駄目みたいだな・・・」

やはり時計は動かないようだ。
チュンサンはユジンに時計を返すと、すぐに自分の腕時計を外した。

「これ」

チュンサンはユジンの手をとり、はずしたばかりのそれをポンと載せた。
重たいメタルの時計が、わずかにぬくもっている。
ユジンの手の平に、チュンサンの体温が伝わってくる。

「使ってていいよ」

そう言われて、ユジンは、不意に昼休みの噂話を思い出した。
好きなひとの時計・・・それを腕にはめて学校へ行くってどんな気分なんだろう・・・
そんな想像に、胸は正直に高鳴る。

「ねえ、チュンサン・・・知ってる?」

・・・聞いてどうするの?
・・・チュンサンは何も言っていないし
・・・これは、そんな意味じゃない

そう思ってはみたものの、言葉は口をついて出てしまった。

「今ね、学校で流行ってるの。男の子が女の子に自分の腕時計をあずけるのよ」
「え?」
「自分だと思って身に着けていてほしいって。そうすればいつも一緒でしょ」

ユジンは言いながら怖くなる。
チュンサンはいったいどんな反応を示すのだろう・・・
それを思うと、言ってしまったことをひどく後悔していた。

「・・・知ってた?」
「いや・・・」

チュンサンが息を詰めて考えこんでいる様子が、肌に突き刺さるように伝わってきた。

・・・何か言って・・・

ユジンは手の中の時計に願うように、それを握り締めた。


時計を預けることが、どういう意味かわかったはずなのに、チュンサンは何も言ってはこない。
ユジンは、もう言葉を発するどころか、顔を上げることさえもできなかった。

・・・いったいなんてことを言ってしまったんだろう。
・・・自分はチュンサンになんて言わせたいんだろう。
・・・きっとチュンサンは呆れてる。
・・・こんなこと言い出して、彼はなんて答えたらいいのか困ってる。

最悪の気分だった。
恥ずかしくて、いたたまれなくて、消えてしまいたかった。

急に家に来ないかと誘われて、手を繋いで走った。
この部屋でふたりきりになって、じっと見つめられて、何度も視線がぶつかって・・・
しかし、思えばたったそれだけなのだ。
たったそれだけで、すっかり彼にとって特別な存在であるかのように
勘違いしてしまった自分が惨めだった。

「あの・・・私、妹を迎えに行かなくちゃいけないの・・・だから、もう、帰らなくちゃ・・・」

泣きたい気分になっていた。
声が震えてしまいそうで、もう話したくない。
ユジンはチュンサンの時計をそっと彼の前に置くと、のろのろと立ち上がった。
「ユジン!!」

叫ぶような声だった。
ユジンがビクッと震え、そしておずおずとチュンサンを見る。

「今日・・・オレ断ったって言っただろ?」

チュンサンはいきなりそう切り出した。
ユジンはいったい何のことかと、戸惑う。
これからチュンサンが何を言おうとしているのかがわからなくて
不安な瞳でチュンサンを見つめ返す。

「ほかに好きな子がいるって、言ったんだ」

その言葉を聴いて、ユジンは一瞬驚いたような顔をしたが、そのまますぐに視線を逸らした。
うつむく横顔に向かってチュンサンは続けた。

「まだ気持ちを伝えてはいないから相手がオレのことをどう思っているかはわからないけど
オレはその子のことしか考えられないからって・・・そう言って断ったんだ」

何も言わず下を向いているユジンの反応が気になったが
ここで言いよどんではもう二度と伝えられなくなる・・・そんな気がした。

「その子に初めて会った瞬間、すごく気になった。
オレはたぶん・・・そのときから好きになったんだと思う」

まさに至近距離で話しているのだから、聞こえていないはずはないのに
ユジンは、チュンサンを見ようともしない。
チュンサンの心臓は考えられないくらいに波打っていて
昼間、自分に告白してきたあの下級生もこんな風にとんでもなく緊張したのだろうかと
そんなことが一瞬頭の隅をかすめた。
自分の声が止んだとたん、ふたりの空間はシンと静まり返る。
そのまま静けさに呑まれてしまうような気がして、チュンサンは続けた。

「そのうち、どこにいても目で追うようになってた。
ほかのヤツと話している姿を見て、無性に腹が立つこともあったし・・・
まだ何も始まっちゃいないのに自分のものにしたくなって、イライラしたり・・・
だから、ちゃんと気持ちを伝えようって思った。
でも・・・実はオレ、自分からこんなこと言うのが初めてなんだ・・・
だから・・・いつ言ったらいいか、上手いタイミングが見つからなくて・・」

チュンサンは、そこでわずかに息を継いだ。

「ユジン・・・ユジンのことなんだ」

ユジンが、はじかれるように顔を上げた。

「好きな子って、ユジンなんだ」

そこまで言ってしまうと、チュンサンはすっきりとしたように大きく息を吐いた。
ユジンが、絶句したまま、目を見張ってチュンサンを見つめている。

「ユジン?」

ユジンのただならぬ様子をいぶかり、チュンサンが声を掛けると
われに返ったように瞬きをしたユジンの瞳から、丸い粒のような涙がはらりと零れ落ちた。

「あっ・・・」

ユジンが小さく声を上げて、あわてて、涙をぬぐっている。
涙がこぼれてしまったことに彼女自身が驚いている、そんな様子だった。

「ユジン・・・」

驚いたのはチュンサンも同じだった。
思いがけないことにどうしたらいいのかわからない。
背中を向けてしまったユジンの前に回りこみ、探るように顔を覗き込むと

「バカっ」

いきなりそういわれた。

「えっ?」

チュンサンは面食らう。

「ほかの子かと思ったじゃないの!!」

涙をぬぐう姿は、まるで幼い子供のようだ。

「ねえ、どうしてそんな遠まわしに言うの?
てっきり、ほかの子かと思って・・・
チュンサンは、ほかの誰かのことを言ってるのかと思って・・・
怖くて聞いていられなかったじゃないの!!」

ユジンの口元は、かすかに震えている。

「ヘンないい方するから・・・
好きな子って、私じゃないんだ・・・って、聞くのが怖くて・・・悲しくて・・・」

ユジンの言葉が、チュンサンの心に大きな波紋を投げかける。
身体の奥底で、じわりと何かが動き出す。

「だって・・・私もチュンサンが好きだから・・・大好きだから・・・」

ユジンの濡れた瞳が、チュンサンをまっすぐに見つめていた。
もしかしたら・・・そう、淡い期待を抱くことは何度かあったが、確かなものは何もなかった。
だから、お互いの気持ちは同じだった。ユジンも自分を好きでいてくれた。
そうわかった瞬間、それまで押さえ込んできた想いが、堰を切ったように噴き出した。
チュンサンがユジンに覆いかぶさるように抱きしめると
それを支えきれないユジンは、小さく声を上げ、よろけながらどさっとベッドに尻餅をつく。
チュンサンは、ユジンが立ち上がる機会を与えぬまま、重なるようにして後ろへと押し倒した。
驚いたユジンが、腕の中でもがくように身体をよじる。
その声や反射的な抵抗は、チュンサンの腕の力をさらに強める引き金となる。

・・・怖がらせてはいけない

そんなことは十分わかっているのに、すでに自分を抑えることができない。
こんなとき男は、野生的な、いわば原始に近い感情が先行してしまうのかもしれない。
力をもって相手を制するという本能的な行動へとかりたてられるようだ。
チュンサンは、体重が掛からないように配慮することも忘れ、夢中でユジンを腕の中に閉じ込めた。
ユジンの背中に手を回し、頭を抱えるようにしてきつく引き寄せる。
自分の胸が、ユジンの胸を押しつぶしている感触がしっかりと伝わる。
興奮のあまり呼吸は荒くなり、心臓は音が聞こえそうなくらいドクドクと波打つ。
チュンサンはユジンと頬を寄せ合ったまま、自分を落ち着かせようときつく目を閉じた。

ユジンの唇の感触・・・
それがどんなものなのか、ずっと考えていた。
それが今目の前にあるのに、すぐに確かめることができずにいる。
衝動的に、いわば力ずくでユジンを腕の中に封じ込めてしまったものの
これはユジンの望むことなのかと、不安になる。
もしかしたら、独りよがりな先走った行為かもしれない・・・
そう思うとすぐに行動には移せなかった。

実はチュンサンにとって、キスは初めてではなかった。
ソウルでは、告白されるままに何人かの女の子と交際した。
自分から積極的に誘うことのないチュンサンの付き合い方に、寂しさやもどかしさを感じて
相手の方から離れていくことが多かったが、そのうちのふたりとはキスを経験した。
別段、好きという感情があったわけではない。
興味本位で、あるいは成り行きでそうなっただけで
行為そのものに、特別な感動はなかった。

それがユジンとはどうだろう。
こうして、ただ抱きしめているだけで身体中の血液が沸騰しそうになり、呼吸が乱れる。
チュンサンの全身が、貪欲にユジンを求める。
今、その唇に触れたなら、歯止めが利かなくなるかもしれない。
自分としては、極めて冷めた人間のつもりでいたが、どうやらそうではないらしい。
本当に誰かを好きになると、こうも変わるものなのだろうか。
チュンサンは、今初めて、制御不能に陥りそうな自分がいることを知った。

「・・・ユジン・・・」

声が震えた。
ユジンは、チュンサンの腕の中、息を潜めたままじっと動かない。
少しだけ腕の力を緩めてユジンの様子を伺う。
もしユジンに拒むような様子が少しでもあったなら・・・
それが怖くて、ただユジンの名を呼ぶことで精一杯だった。
ユジンからは何の返事もなく、チュンサンの胸に不安が広がり始める。
そのとき、一方的に抱きしめられるだけだったユジンの腕がそろそろと動いた。
その両腕がチュンサンの背中にしっかりと回され、ただ何も言わず、ぎゅっと抱きしめてきた。
いや、しがみつくといったほうが正しいのかもしれない。
そのあまりにもぎこちない反応は、チュンサンの胸をストレートに射る。
チュンサンは言葉にならない、低く呻くような声を発すると
ユジンを再びきつく抱きしめた。

やさしい雨の匂いと甘い香りのするユジンの髪に顔をうずめ
細い肩や背中をいつくしむように何度もさする。
ユジンがそれに応えるように、チュンサンにぴたりと寄り添ってくる。
そうしてふたり、しっかりと抱き合っているうちに
狂おしく求める気持ちの中にも
大切にいたわりたい想いが、胸いっぱいに広がり始める。
痛みを伴うくらいに膨れ上がってしまった欲望も、どうやら、暴走を免れそうだ。
チュンサンの気持ちが落ち着いていくことを感じたのだろうか
こわばっていたユジンの身体からも、少しずつ力が抜けていくのがわかった。

チュンサンは瞼を閉じたままのユジンの額にそっと唇を落とした。
唇が触れた瞬間、腕の中のユジンの身体がビクッと跳ねて
シャツの背中をぎゅっと握り締めてきた。
そんな些細な反応すら、チュンサンの心臓は締め付けられそうになり
思わず震えるような吐息が漏れてしまう。
いとおしさに、頬を寄せ、そして唇を当てる。
ユジンの肌はなめらかで、あたたかく、そしてとてもやわらかかった。
チュンサンの唇は、ユジンの閉じた瞼に、濡れた睫毛に、鼻の頭にと、ゆっくりと移動していく。
一番触れたい部分を避けるように、耳たぶやこめかみにも唇を当てた。
ひとつひとつに想いを込めて、丁寧に唇で辿る。
その度にユジンの熱い吐息がチュンサンの顔に掛かり、ゾクゾクと背中から全身に痺れが伝わる。
チュンサンは顔を離して、ユジンをそっと見つめた。
伏せた睫毛がかすかに震え、小さくふっくらとした唇がわずかに開いている。
その表情を見たとき、ユジンも待ってくれている・・・そう確信した。

チュンサンがユジンの頬にそっと片手を添えると、ユジンがうっすらと目を開けた。
チュンサンの顔に、うつろな視線をゆっくりと漂わせたあと
何か言おうとしたのか、唇がわずかに動いた。
今まで一度も見たこともない表情(かお)に、抑えがたい衝動が突き上げる。
チュンサンは、ユジンの言葉を待ちきれずに、まるでぶつかるように小さな唇を塞いだ。

ふたりの呼吸が止まる・・・
心臓がきゅっと締め付けられる・・・
頭の中が真っ白になる・・・

そんな瞬間だった。
そのとき、サイレンのようなけたたましい音が部屋中に鳴り響いた。

ジリリリリリリリ!!

大音響で響くその音に、二人の身体はビクッと跳ね上がり、思わず唇が離れる。
ふたりが音のするほうに目をやると
ベッドから少し離れたところにある机の上で
銀色の目覚まし時計が体中を震わせながら時を知らせていた。

勢いよくベッドから飛び降りたチュンサンが目覚まし時計の頭を思いっきり叩くと
とたんに部屋に静けさが戻ってきた。
そのとき背後でベッドのきしむ音が聞こえ
視界の端に、ユジンがゆっくりと身体を起こしている姿が映る。
チュンサンはもう時計を叩き壊したい気分だった。
なぜ、今、このタイミングに鳴り出すのか、わけがわからなかった。
ベッドの上に座り、うつむき加減に髪を直すユジンをチラリと見る。
チュンサンもまた、気恥ずかしさに髪をかきあげながら、ゆっくりとベッドに近づいた。
なんと声を掛けていいものかわからず
ただ黙って向かい合うようにベッドに座る。
それでも、このまま終わらせようなどとは、到底思えない。
チュンサンの欲望はいまだ張り詰めたままだったし
このいいようのない気まずさを収める方法は、さっきの続きをするしか思い当たらない。
ユジンがおずおずと顔をあげたのをきっかけに
チュンサンは大きくにじり寄り、ユジンの背中を抱き寄せた。

しかし、なんと、机の上で再び目覚まし時計が鳴り出した。
ふたりは、信じられないといった顔で時計に目を遣る。
ケタはずれに凄まじい金属音の鳴り響く中で、悠然とキスを続けることなどできるはずもない。
チュンサンはすっかりあきらめたようにユジンの身体を離し
今度はゆっくりと時計に近づくと、もう二度と鳴り出さないようにスイッチをオフにした。
そして時計を恨めしげに眺め、はぁっと大きくため息をつく。
その様子に、ユジンが思わず吹きだした。
小さく身体を震わせて笑っているユジンにつられて、チュンサンも思わず苦笑する。
そうして、ふたりは見つめあい、声を上げて笑い合った。
「すごい音ね」

ユジンが目じりをぬぐい、いまだ可笑しそうにクスクスと笑いながら言った。

「起きられないんだ。これくらい大きくないと」
「でも、どうしてあんな離れたところにあるの?」
「止めるには、起きてあそこまで行かなきゃいけないだろ」
「ああ・・・それで」
「でも、止めたあと、またベッドに戻っちゃうけどね」

ユジンは、それじゃダメじゃない、と笑いながら
寝ぼけまなこで目覚まし時計を止めるチュンサンを想像する。
再び眠ろうと、今自分が座っているこのベッドにもぐりこむ姿を思い描く。
胸がドキッと反応し、そして急に恥ずかしくなって、そろそろとベッドから降りた。

「お母さんは?起こしてくれないの?」
「いないんだ、いつも」
「いないって・・・仕事?」
「海外が多いから」
「ああ・・・」

そうだったのか・・・だから、ぬくもりのようなものが感じられなかったんだ。
ユジンは思い出していた。
それは最初に、この家に入ったときの印象にかすかにあった。
どんなに綺麗に整えられていても、どこか冷たい印象をぬぐえない。
生活感がないのだ。
それに比べユジンの家は、何があっても、母とヒジンと三人だ。
朝は、母が二人を起こす声で始まる。
遅刻しそうだと騒ぐユジンの声や
幼稚園の制服のリボンが結べないと泣きべそをかくヒジンの声。
そしてそれらをたしなめる母の声。
やがていつしか笑い声に包まれ、ユジンの一日が始まっていく。
そんなユジンからすると
毎日たったひとり寝起きをすることなどとても想像できない。
いったいチュンサンは毎日どんな思いでいるのだろう・・・
ユジンは、できれば自分がずっと傍にいていてあげたい・・・そんな気さえしていた。
「おくっていくよ」

玄関で靴を履くユジンに、チュンサンが言った。
ユジンが、振り返りうれしそうにうなずく。
雨はまだしとしとと降り続いていて、わずかに暗くなりかけた庭が寂しい。
これで自分が帰ってしまったら、チュンサンはこの静か過ぎる家で
ひとりで夕食を済ませるのだろうか・・・
そう考えると、ユジンは後ろ髪を引かれる想いだった。

「チュンサン・・・もしかして今夜もひとり?」
「うん」
「ねえ、さびしくない?」
「もう慣れたよ」
「・・・・ホントに?」

ユジンが心配そうにチュンサンの瞳の中を覗き込む。
チュンサンの心の奥を探るように、じっと見つめてくる。
そんなユジンを見て、チュンサンは、急に無理を言って困らせたくなった。
ここで引き止めたら、ユジンはなんて言うだろう・・・。
チュンサンは、わざと声のトーンを落として言った。

「ほんとは・・・ちょっとさびしいかな・・・」
「チュンサン・・・」

何の疑いも持たないユジンの様子に、すぐにでも抱きしめたくなる。

「ユジン・・・」
「ん・・・?」
「今夜・・・泊まってってくれないかな」
「えっ」
「ユジンが一緒なら、オレ、さびしくないから・・・」

チュンサンが、真顔で見つめる。
ユジンは、驚き、そしてすっかり困ってしまったようだ。
チュンサンの視線から逃れるように、手元に視線を落とした。

「ダメかな」

からかうつもりが、本気で誘っている自分に気づく。

「ユジン・・・」

このまま帰したら、今夜は眠れるはずがない。

「あの・・・あのね、チュンサン・・・私・・・」

ユジンが一生懸命に言葉を探している。

「あの・・・チュンサンがきっとさびしいだろうなって、傍にいてあげたいなって・・・
そう思ったのよ。ホントよ・・・でも・・・」

かすかなため息をつく様子に、自分がひどく意地の悪いことをしている気分になった。
チュンサンはすぐに思い直して、努めて明るい声で呼ぶ。

「ユジン!」

さっきまでとはまるで違うその声に、ユジンが、はっと顔を上げた。
チュンサンの目が笑っている。
ようやく事情をのみ込んだユジンが、ヒドイ!!と、胸を叩こうとする。
チュンサンはその手を素早く掴み、自分の胸に引き寄せた。

「もうっ、からかわないでよ・・・」

ユジンがチュンサンの胸を、くやしそうに叩く。

「なんて言ったらいいのか、すごく困っちゃったじゃない・・・」

甘えるように身体を預けてくる。

「ゴメン・・・」

チュンサンはユジンの背中にしっかりと両腕を回した。

「でも・・・けっこう本気だったんだけど・・・」
「え・・・?」
「ユジンさえよければ・・・オレは、正直そう思ってる」
「・・・・・・」
「焦ってるかな・・・オレ・・・」

思い切って本音を言ったものの、ユジンが黙ってしまったことで妙な気まずさが漂う。
チュンサンが、思わずふうっとため息をつく。
わずかな沈黙のあと、ユジンがチュンサンにもたれたまま言った。

「聞いて、チュンサン・・・」

わずかにくぐもった声は、どこか切なげで、そしてしっとりと湿っていた。

「私ね・・・チュンサンと・・・あの・・・
そういうふうになるのが嫌とか、そんなことじゃないのよ」
「・・・・・」
「ホントよ・・・私は、そういうの、チュンサンとしか考えられないもの・・・」
「・・・・・」
「私も・・・チュンサンとならって、そう思ってる」
「うん・・・」
「でも・・・」
「なに?」
「なんだか、一度にいろいろありすぎて」
「だから?」
「だから・・・もっとゆっくりでも」
「早すぎるってこと?」
「それは、わからないけど・・・」

不意に苛立ちを覚える。
ユジンと気持ちが通じ合っていることは、もう十分にわかってはいるのだ。
しかし本音を言えば、それだけでは、この身体の奥でくすぶる感情は処理しきれない。

「チュンサン・・・」
「ん?」
「怒ったの?」

ユジンが敏感に感じ取る。
実際、口を開くと、言葉がきつくなりそうだった。
自分は、今すぐにでもユジンが欲しいのに・・・。
ユジンとの温度差に苛立ちが募り
行き場のない想いは、不器用な形になって現れる。
チュンサンは、もう何も言わず、ただユジンの背中がしなるほどきつく抱きしめた。

見た目は華奢で、折れてしまいそうなのに
腕の中のユジンの身体は、あまりにもやわらかく、あたたかい。
抱きしめていると、壊してしまいたくなるほど気持ちが乱れた。

「ユジン・・・やっぱりこのままじゃ、オレ・・・眠れないよ・・・」

腕の力を緩め、額を合わせる。

「どうしたらいいの・・・?」

ユジンが甘いため息をつき、囁くように尋ねる。

「さっきの続き・・・」

チュンサンは、身体を離しユジンを見つめた。

「あれじゃ、したうちに入らないだろ・・・」

ユジンは一瞬戸惑い、しかしすぐにその口元にやさしい微笑みを浮かべた。
チュンサンの気持ちを包み込み、受け入れるように、そのままそっと瞳を閉じる。

小さな鼻とふっくらとした唇。
細い肩に手を置くと、長い睫毛がかすかにふるえている。
ふと泣きたくなるような衝動が起こった。
いとおしい・・・そんな言葉が頭の中をぐるぐると回った。
ただ黙って、瞳を閉じて、チュンサンの唇を待っているその無防備さに胸が締め付けられる。

・・・こんな顔をオレにしか見せていないんだ・・・

そう思うと、これからするキスがひどく乱暴になってしまいそうだった。
抱きしめて噛み付いて、滅茶苦茶にしてしまいたい・・・
そんな叫びたいような想いだった。

いつまでもチュンサンの唇が近づかないので
ユジンはためらいがちに目を開けた。
どうしたの?
と、不安げなまなざしを送ってくる。
ユジンの表情に見惚れてしまった・・・とはさすがに言えず

「もう少し、上向いて・・・」

そう言って、ユジンの顎に手を添えた。

「ん、もうっ・・ヤダ」

ユジンが恥ずかしさに頬を染め、言われるままに顔を上向けて瞳を閉じる。
必要以上に上を向く仕草がたまらなく可愛くて、さらにいとおしさが増していく。
チュンサンはゆっくりと顔を近づけると、身体が震えるほどの欲望をぐっと封じ込め
あえて静かに、そっと唇を触れ合わせた。
ユジンの身体が小さく震える。
チュンサンはいったん唇を浮かせ、今度はそれを押し当ててみた。 
ユジンの甘い息が漏れ、答えるように唇が押し返してくる。
その唇の柔らかさに、チュンサンの全身が痺れる。
チュンサンはユジンの頬を両手で挟むと、その小さな唇にそっと歯を立てた。

二度目は邪魔をするものなど何もなかった。
ふたりは夢中で唇を合わせた。
降り続く雨の音も、もうふたりの耳には届かない。
苦しくなると息を継ぎ、そしてまた触れ合わせる。
ようやく唇が離れたときには
相当肩に力が入ってしまっていたのか、お互いが、ほぉっとため息を付く。
それでもすぐに

「・・・もっとしたい」

チュンサンは、そうつぶやいた。
実際、いくらしても足りないと思った。
それほどユジンの唇が、すぐにでも欲しくなった。
唇を触れ合わせる・・・たったそれだけの行為が、これほどまでに欲望を満たし
そして、どこまでも求めたくなるものかを初めて知った。

ユジンの細い指先がチュンサンの頬に触れた。
そこから伝わる想いにチュンサンの心が震える。
どちらからともなく顔を近づけ、鼻の頭を触れ合わせ、ゆっくりと瞳を閉じる。
熱い息が掛かり、ふたりはまた唇を合わせた。
その日三度目のキスは、二度目よりさらに長く、そして熱かった。
玄関を出るとき、チュンサンの手には傘が一本だけだった。
広げた傘に、ふたり寄り添って入る。
狭い傘の中ならば、通りを歩くときも堂々と身体を触れ合わせることができる。
ふたりの歩調はとてもゆっくりで、それは同じ気持ちの現れだった。
バス停には数人の客が、バスを待っていた。
もし誰もいなかったら、傘を盾に、四度目のキスをしたかもしれない。
それほど繋いだ手からは、互いの想いが伝わってくる。
いつまでもバスが来なければいい・・・
口にこそしないが、それもまた、ふたり同じ想いに違いなかった。
時間が迫る。
バスがひとつ手前の信号で止まっているのが見えた。

「ユジン・・・」
「ん?」
「今夜、電話してもいいかな」

チュンサンが、少し遠慮がちに尋ねる。
ユジンは、そんなチュンサンがたまらなくいとおしくて
とびっきりの笑顔でうなずいた。
信号が青に変わり、バスが停留所に近づく。
いつまでも繋いだ手を離したくなくて、ふたりはわざと乗客の最後尾に並ぶ。
いよいよユジンが乗り込む番になったとき
チュンサンがポケットから取り出したのは、あのメタルの腕時計だった。

「・・・持ってきたの?」

驚いているユジンに時計を渡すと、チュンサンはゆっくりと繋いだ手を離した。

「じゃ・・・あとで」

そう言って、一本しかない傘をユジンに無理やり持たせ、その背中を押す。
チュンサンを振り返ったとき、ユジンの目の前でバスのドアが閉まった。

走り出したバスの窓からは、濡れながらバスを見送るチュンサンが見えたが
その姿はじきにカーブの向こうに消えてしまった。

「もうっ・・・かぜひかないでよ」

ユジンは、雨の中を走って帰るチュンサンを想いながら、最後部の座席にたどり着く。
いつもの席に腰を下ろすと、そこで初めて手の中の時計をじっくりと見た。
指先でガラスの部分をそっと撫でてみる。
耳に当て、音を確かめたりもした。
そしてついに、そろそろと左腕にはめてみた。
男性ものの時計はあまりにも大きく、ユジンの細すぎる手首では、ぐるぐるとまわってしまう。
ユジンは、そのまま腕を上げたり下ろしたり・・・
そうして何度もチュンサンの時計をはめた自分の腕を眺めた。

チュンサン・・・こんなことしたら、みんなに噂されちゃうわ・・・
そういうのって苦手なんじゃない?
本当にいいの?
これ・・・明日学校にしていっちゃうわよ・・・

ユジンは心の中でそっと時計に語りかける。
好きな人のもの・・・それを身に着けることがこんなに幸せになれることに
ユジンは胸がいっぱいになった。

チュンサンの顔を見たくなる。
たった今、別れたばかりなのに、逢いたくてたまらなくなくなる。

そして・・・
ユジンは、左手の時計に、そっと唇を当てた。











あとがき

大変、お待たせしてしまいました。
根気よく待っていてくださって、本当に感謝です。
しかし、果たしてこれで、待っていただいた甲斐がある仕上がりなのかどうかは
はなはだ疑問ではあります。

さて、この創作に関しては、チュンサン&ユジンのキャラクターが
本編とは離れてしまっていることを、どうかご了承ください。
これは、本編の時間軸の中にはありえない設定であって
あくまで、私が、こんな高校生であって欲しかった・・・的思いを込めて
勝手に作り出したふたりです。
いつも創作をするときは、みなさまの抱いている彼らに対する思い入れに対し
水をさすことのないように、できる限り本編に忠実にキャラクターを表現している
つもりですが
今回は、それよりも、創作の内容に二人を合わせる感じで書かせていただきました。

思えばこの創作に着手したのが、まだ「MOONLIGHT LOVERS」を書いているとき。
そこからすでに半年以上がすぎてしまい、いかにこの話がむずかしかったかを
自分自身、実感しています。
書けないことはないんです。
でも、とてつもなくノリが悪い。
そんな時書いたものを、この大切な場所に置かせていただくわけにはいきません。
仕上がるまでには、寄り道、回り道をして、やっとここまでたどり着けた・・・
本当に、超難産モノでした。
とにかく、終わってほっと胸を撫で下ろしているというわけなのです。

最後に、この場所を提供&素敵な装丁をしてくださったShieさんに
そして、最後まで読んでくださったみなさまに
心より御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました。
こうして、作品を読んでいただけることは
この上ない贅沢であるということを肝に銘じて
今後も、ゆっくりじっくり、何かを書いていけたらと思っています。







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